聖書のみことば
2023年11月
  11月5日 11月12日 11月19日 11月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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11月26日主日礼拝音声

 マリアの賛美
2023年11月第4主日礼拝 11月26日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第1章46〜56節

<46節>そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、<47節>わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。<48節>身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、<49節>力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、<50節>その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。<51節>主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、<52節>権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、<53節>飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。<54節>その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、<55節>わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」<56節>マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

 ただ今、ルカによる福音書1章46節から56節までを、ご一緒にお聞きしました。46節47節に「そこで、マリアは言った。『わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます』」とあります。
 マリアが神をたたえたこの賛美の言葉は、ラテン語の聖書では「Magnificat anima nea Domininum」(マグニフィカート アニマ メア ドミヌーム)という言葉で広く知られています。先頭に出てくる「あがめる」という言葉から、このマリアの言葉は「マグニフィカート」という名前で呼ばれるようになり、バッハをはじめ、沢山の音楽家がこの言葉に美しい旋律をつけ賛美歌として歌われています。私たちが使っている讃美歌の95番も、このマリアの賛美の言葉に曲をつけたものです。

 沢山の美しいメロディによって親しまれる賛美の言葉ではあるのですが、しかし、この言葉を発した時、マリアの置かれていた状況は決して麗しいとは言えないものでした。この時のマリアの心の内を考えるならば、子を宿していることを手放しで喜べるような状況ではありません。何といっても普通に考えて、マリアの胎内に子が宿ることはあり得ないことだったからです。マリア自身が述べているように、マリアは男の人を知らない処女でした。ですから、そういう自分に子が宿ることなど、マリアには到底受け容れ難いことでした。
 百歩譲って、もし本当にマリアの中に胎児が宿っているというのであれば、その懐妊は人間が原因ではなく、神の創造の御業以外には考えられないことです。そして実際、天使の口を通してマリアに伝えられた事の次第もその通りの説明でした。1章35節で、天使はマリアに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と告げています。マリアに子が宿ったのは、聖霊がマリアに降り、いと高き主の力の働きによることなのだと、マリアは聞かされました。マリアとすれば、これに反論することはできません。ザカリアのように聞かされた知らせを信じず聞き流すという態度を取ることはできます。ただその場合でも、マリアに神の御業を止めることはできません。天使の言葉をあり得ないたわ言として退け、聞かなかったことにすることはできても、神の御業そのものを押し止めることはできないのです。
 それでマリアは、遂に、天使の告げてくれた知らせを受け容れ、「はしため」として主に従う決心をするに至りました。38節「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」という有名な言葉を口にして、マリアは、ここに起こる出来事について自ら身を向けて臨んでゆく「はしため」となります。

 ところで、マリアがそのように神の創造の出来事を自分の身に受け止め仕えようとしたことは、同時に、言われのない中傷を受ける覚悟をすることでもありました。懐妊と幼な子の誕生について、マリアは常に人々から好奇の眼差しを向けられ、口さがない人たちの中傷を受けざるを得ません。このことは、今日に至るまで変わることはありません。
 マリアが主のはしためとして神のなさりようを受け止め、クリスマスの御業に自らが用いられることに身を向けた時、彼女はもう、昔の幼い童(わらべ)のようではいられませんでした。人間の状態は言葉に表れます。マグニフィカートと呼ばれるマリアの賛美の言葉には、もはや中傷をものともせず、ただ神の御計画が実現することを待ち望むマリアの覚悟と姿勢がよく表れています。今日はそのマリアの姿勢を聞き取りたいのです。

 47節48節に「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう」とあります。マリアの思いは、自分が周囲からどのように思われるか、どのように見られ、どう扱われるかということには、何も向かいません。マリアの思いはひたすら、彼女を用いて神が一つの御業を行おうとしておられるという、そのことにだけ向かっています。天使を通して知らされた、神の新しい創造の御業の実現だけに、マリアの思いは向かっています。神の御計画が実現されて御業が果たされるということ、それだけにマリアは寄り頼もうとします。
 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」とマリアは言っています。「わたしの魂」、「わたしの霊」という言葉には、マリアがはしためとなってこの後に起こる御業に仕えることが、決して口先や小手先のことではなくて、マリアの全存在をかけて従うという決意が表れているのです。マリアは主のはしためとなる覚悟を決めます。神の偉大な救いの御業がマリア自身を通して、またマリアの人生全体を通して行われる時、マリアはその神のなさってくださる御業の陰に隠れて、自分自身としては小さく小さくなってゆきます。それが「主をあがめる」ということです。

 マリアは、「自分が幸いな者と言われるだろう」と、まるで預言者のようなことを口にします。この幸いは、彼女の名が人々に知られるようになり有名になるから幸いだというのではありません。そうではなくて、マリアは世の中に無数に生きている人間たちの中の一人であって、身分の低いはしために過ぎない者だけれども、そういう者にも神が目を留めて下さり、御業の中に持ち運んで役割を与え用いて下さるから幸いだと言っています。マリアは、自分の名前が大きく有名になることを喜んだのではないのです。無数の人々、命を与えられ、無数に生きている僕たち、はしためたちの一人ひとりに、神が眼差しを注いで目を留めて下さり、それぞれに生きる務めと役割を与えて用いようとしてくださる。その実例として、自分が用いられたことに深く感謝し、感動しているのです。

 マリアは深い感謝と感動の中から、言葉を継いで語ります。49節50節に「力ある方が、 わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、 主を畏れる者に及びます」とあります。マリアの心の思いは彼女一人だけではなく、主を畏れて敬い、主が御業を行っておられると信じる人々全てに向けられています。「力ある方がわたしに偉大なことをなさった」というのは、もう少しはっきり言うならば、無から有を呼び起こし、何もないところに御言をもって存在を来たらすことのできる力ある創造の主がマリアの中に救い主となる幼な子を宿らせたことを言っています。それまで自分の中には何もなかったけれど、神が新しいものを造って与えてくださった、神が創造してくださるという御業を、マリアはたたえます。
 しかもそれは、マリア一人だけの身に限って起こることではありません。人間の母として救い主イエス・キリストを出産するのは確かにマリアだけですが、その先にも、神は数々の憐れみを及ぼして下さり、信じる人々を起こし、神を畏れ信頼して従う人々の上に御業を行って下さるのだと、マリアは言っています。
 ここまでを聞いてくると、マリアの賛歌として広く知られているこの言葉は、一人マリア のことを語っているのではなくて、その先に続く大勢の人々のことが、その視野の内に捉えられている言葉だということが分かってくるのではないでしょうか。マリアに示され、実現することになった神の憐れみは、「代々に限りなく、主を畏れる者たちの上に及ぶ」とマリアは言います。自分の中に幼子が宿ったということだけで賛美が終わるのではないのです。
 ということは、マリアが「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と語ったように、今日、ここに集っている私たちも「自分は主の僕、主のはしためです。どうか、神の御用のためにこのわたしをお用いください」と祈って、自分自身を神に明け渡し、御言に導かれて生活するならば、神の憐れみと慈しみは、私たちの生活のただ中にも満ち溢れるようになるということです。マリアはそのことを喜んで、自分自身のことではなくて、他の大勢の人々の幸いを感謝して、ここで賛美を歌っています。

 そして、マリアの神への信頼の眼差しは、更に遠く、遥か彼方に向かいます。将来に起こる「神による終わりの裁きと完成の時」へとマリアの眼差しは向かうのです。ナザレの一乙女にすぎなかったマリアに、このような、千里眼のような信仰の眼が与えられていることは驚きであり、不思議なことです。しかしマリアは確かに、終わりの日に神がこの世の一切の事柄に決着をつけて下さり、高ぶって他の人々を支配し抑圧している者たちを退け、貧しくても神の御前を歩もうとする者たちを救って下さるという幻を示されて語ります。51節から53節に「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」とあります。ここに示されているのは、一つの革命の情景です。変わる筈はないし動くこともないと思われてきた世の中の重い秩序が全く権威を失ったかのようにあっという間に棄て去られ、そこに、それまでとは違った新しい秩序が生まれる様子を、マリアは幻の内に示されました。
 私たちも時おり、このような激しい変化が方々の国で起こる様子を目撃することがあります。大抵は絶大な力を誇って人々を抑えつけてきた指導者が退かされることにより、その国の様子が様変わりするのですが、そういう時には従来の支配者の行いが断罪されて血が流れることも珍しくありません。マリアもそのような将来の凄惨な光景を目撃したのでしょうか。
 しかし、神がお与えになる終わりの日の裁きは、血で血を洗い、力のある人間が弱い人々の上に権力を振るうというようなものではありません。マリアは確かに思い上がる高慢な者たち、権力を振るうような者たちの失脚を示されましたが、しかしここでは、それに代わって新しい権力者が立てられるとは語られません。
 一切の終わりの日に打ち立てられる新しい秩序では、真の王自らが、他の人々、民全体の身代わりとなって自ら血を流し、全ての過ちと不法を清算してくださるのです。私たちはマリアを通してこの世にもたらされた新しい王から、そのような新しい世界の訪れを既に知らされているのではないでしょうか。マリアは先駆けのように、ここから生まれてくる幼子から始まる、新しい支配の幻を示されているのです。

 ですからマリアは、その神の御業をたたえて語り続けます。54節55節に「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」とあります。
 マリアが幻を通して示されたのは、神が御自身の民イスラエルをお忘れにならず、受け止め受け入れて下さるという将来でした。実際に、マリアの時代のイスラエルの人々の側は、自分たちがそのように神から憶えられ受け入れられていることを知りません。世の中には尚多くの人間が犯してしまう罪も不法も横行しています。争い、戦いがあり、多くの血が流されています。そのような世の中で、その時々に最も上手に人々を操り、力を手にした者が社会の頂点に君臨しますが、その支配には不平不満も多く、権威は揺らいで終始ぐらついています。マリアの時代のイスラエルがそうでしたし、それは今日の私たちの世界も何ら変わることがありません。
 しかし、そういう人間の愚かさ、浅ましさが繰り広げられる歴史の涯に、神が終わりの日を用意しておられ、そこでは弱い者たちの血が流れるのではなく、神の正義と平和が実現されてゆきます。その様子をマリアは示されました。

 こういうマリアの賛美の言葉を聖書から聞きながら、私たちは気付かされるのではないでしょうか。マリアが幻のうちに示された情景というのは、この世界の終わりの姿であると同時に、私たちの教会が、やがて行き着く先の姿でもあるのではないでしょうか。教会は今この時、地上に建てられてはいますけれども、この世に立脚して立っているのではありません。主イエス・キリストがこの世界を訪れてくださって、一人ひとりに「わたしに従って来なさい。あなたと一緒に歩いてあげよう」と呼びかけてくださり、集められている群れが教会です。私たちは今、そういう主イエスの呼びかけがあったからこそ、ここに集っています。そしてまたこの営みは、私たちが世を去る時も変わることがありません。私たちは、地上にいる間だけ主イエスが共にいてくださるというのではなくて、地上の生活を超えてもなお、神が一人ひとりに目を留め、神の御前に生きる者として、場所を移して持ち運んでくださいます。
 神は御自身の僕イスラエルを受け入れ、憐みをお与えになります。教会は、神が真実にこの世界を支え持ち運び、慈しみを実現して下さる、そういう来たるべき世の訪れを待ち望みながら、この世にあってそういう約束があることを表して立ってゆくのです。そして、神が私たちを憶え目を留め、一人ひとりに「生きてよい」とおっしゃってくださっている、その約束を指し示しながら生きてゆくのです。キリスト者一人ひとりは、そういう役目を神から与えられ、この地上を生かされています。

 今日の箇所は、マリアが神をたたえる言葉が書き連ねられていて、まるでマリアの独り言のように感じるかもしれません。しかしマリアはここで、一人ではありません。マリアの傍らに、じっとマリアの賛美に耳を傾けているエリサベトもいます。若いマリアと年輩のエリサベトが、共々に神の約束の実現を楽しみにしながら、神をたたえる言葉に耳を傾け、集っています。これもまた、地上の教会の姿ではないでしょうか。教会には若い人も年輩の人も共に集い、そこで語られる御言の説き明かしに耳を傾けます。神の約束が私たちの身の上に起こることを楽しみにして賛美をささげ、その実現を楽しみに待ち望みながら、御言に示される愛の生活を一人ひとりが生きるのです。
 実は、今日ここに集められている私たち一人ひとりがマリアであり、エリサベトであり、神に憶えられ眼差しを注がれている一人ひとり、神の民なのです。
 御言を知らされ、新しい世の訪れを聞かされている者として、私たちは、互いに親切に支え合い、また誠実に生きる者とされたいのです。お祈りを捧げましょう。

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